でも始めたらめっちゃやる。
『ティッシュペーパーをトイレに流すと詰まる』
ということを皆さん知っていますか?
僕は20歳くらいまで知らなかったのですが、それを知らないことを友人にめちゃくちゃ驚かれたことがあります。
「は!?」という、軽蔑のこもった(ような気がした)目と声は僕の心を深く傷つけて、きっと他人からしたら世界一どうでもいいエピソードは10年経った今も僕の脳みそから消えてくれません。
世の中には「社会性」というものが溢れています。
「人として云々〜」ということを僕たちは生まれたときから教育されて、「正しいこと」と「間違ったこと」を覚えて、大人になってもほとんどの人はそれを疑うことなく信じて生きているように見えます。
「自分の信じた道を行け」と歌うバンドマンも、「打ち上げに出ないとかありえない」という社会性の中で生きていました。
「なんか宗教っぽいなぁ」って感じます。
その社会性という宗教を信じて、自らを律することができるなら、ガンガン使うべきだと思います。
でも、みんながみんなそれを真似できるわけではありません。
みんなが当たり前にやってる(ように見える)ことが、自分には辛くて辛くてたまらないっていうことはだいたいみんな経験してるんじゃないでしょうか。
辛くてたまらないなら、そんな宗教は辞めてしまえば良いと僕は思います。
自分を苦しめることしかできない神様なんか信じる必要はありません。
ぼくらは同じ国に生まれて、同じ言葉を使って、同じ社会の中に生きてるだけで、「僕たちはみんな仲間だ」と思い込んでしまいます。
だから自分が理解できないことを仲間がしてしまったときに、怒りが湧いてくるんじゃないでしょうか。
でも本当はそんなことなくて、むしろぼくらはきっと何もかもが違います。
僕は「他人は全員宇宙人」だと思っています。
同じ言葉を使うから分かり合えてる気分になれるけど、あくまで「ざっくり分かる」くらいのレベルじゃないでしょうか。
だからティッシュをトイレに流してしまったあの日、友人には「へぇ〜。ティッシュを流すとトイレが詰まることを知らない人類がいるんだぁ〜」と受け止めて欲しかったし、僕は「へぇ〜。ティッシュを流したら詰まることを知らないだけでそんなにびっくりする人類がいるんだぁ〜」という感想を抱けば良かったなと思います。
あの日僕が傷付いてしまったのは、きっと僕がそういう「社会性」の信者だったからなのかもしれません。
思えばフリーターバンドマンをやってた時期も無駄にしんどかったです。
完全に無駄なしんどさだったなと、今だから言えます。
宗教を信じるのは個人の自由ですが、他人に強要したところで誰も幸せになりません。
異教徒とは距離を取って、できるだけぶつからないように生きていくのがいちばん平和だと思います。
お互いに、わざわざ叩きに行く必要なんて無いです。
そして、みんなが自分と違う異教徒の存在を認めることができれば、へっぽこ達にはもう少し生きやすい社会になるのかなと思います。
人間は好きなように生きて好きな時に死ぬことができるんだから、別に自殺が悪いことだとは思いません。
ただ、本当は生きていたいのに、生きることが辛すぎて消去法で死を選ばざるを得なかった人に対しては、「もったいないなぁ」という感想を抱いてしまいます。
社会性が人を死に追いやる可能性は十分にあると思うし、その社会性の正体は僕たちそのものです。
僕は僕に近い人が死ぬのは気持ち悪いし嫌なので、社会性のせいで死にそうな人にはぜひ棄教をオススメしたいし、本当に好き勝手に生きて欲しいと思います。
ちなみにめっちゃ宗教に例えてますが、僕は無宗教で、宗教の知識もそんなに無いです。
ただ、僕が子どもの頃に親が宗教大好きだったので縁だけはありました。
ほんまに宗教は他人に強要しちゃあかんで。
ほなまた。